死刑か無期懲役か?

死刑廃止論も取り沙汰されてる中、死刑判決は慎重にという意見がある。

 

しかし、殺人事件においては、大抵の被害者遺族は死刑を望みます。何の罪もない人が殺害され、被害者本人や遺族の苦しみを考えれば当然といえるだろう。

 

しかし、死刑判決が下らないケースでは、遺族の憤りや、裁判に対する国民の批判は当然起こるところであろう。

 

 

2014年に神戸市で6歳の女児が殺害された事件です。以下mixiニュースより

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「娘に報告できない…」 神戸女児殺害、遺族談話の全文 無期懲役が確定へ184

2019年07月04日 00:07

毎日新聞

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最高裁判所=東京都千代田区隼町で、本橋和夫撮影
 神戸市長田区で2014年、小学1年の女児(当時6歳)を殺害したとして、殺人などの罪に問われた無職、君野康弘被告(52)の上告審で、最高裁は1日付で検察側の上告を棄却する決定を出した。死刑とした裁判員裁判の1審・神戸地裁判決を破棄し、無期懲役を言い渡した2審・大阪高裁判決が確定する。最高裁の決定を受け、女児の母親は3日、代理人の弁護士を通じてコメントを発表した。


<コメント全文>


 本日、娘の事件について、上告が棄却されたとの報に接しました。


 私たち遺族は、被告には生命をもって償ってもらうほかないと考えておりました。娘の命が奪われた事件について、正当な判断をくだしてほしいと考えておりました。そのような思いから、私は、地方裁判所でも高等裁判所でも、裁判に参加して、質問して、意見を述べてきました。高等裁判所無期懲役の判決が出た後も、最高裁判所で判決を覆していただけるものと信じてきました。


 しかし、そのような思いは、かないませんでした。


 娘の事件について、裁判員裁判では、被告には死刑が相当であるとご判断いただきました。私たち遺族は、その判断は正当なものであったと今でも確信しています。娘は、理不尽に命を奪われました。6年しか生きられませんでした。娘が生きていれば、今年、小学校を卒業することになっていたはずです。私たち遺族は、あの事件の日から時間が止まったままでいます。あの事件は、娘の将来を全て奪ってしまいました。


 被告は、娘の味わった痛み、苦しみ、恐怖、絶望、私たち遺族の悲しみを理解しているとは思えませんでした。裁判を通じ、被告からは、反省も、償おうとする思いも伝わってくることはありませんでした。ただ、刑を軽くしようとしているとしか思えませんでした。


 裁判員裁判では、長い時間をかけて審理して、被告に直接質問をして、被告の犯した犯罪の悪質さや被害の重大さを正面から捉えていただきました。そのうえで、事件の残虐さや、被告の反省のなさを見極めて、死刑以外にはないと判断していただきました。


 そのような判断を、高等裁判所最高裁判所が覆してしまったのは納得がいきません。裁判官は、前例を大事にしているだけで、一人の命の重さを理解していただいていないとしか思えません。亡くなったのが一人であれば死刑にならないという前例は、おかしいと思います。計画性がないとか、前科がないというのも、それだけでは死刑にしない理由にはなりません。そのような前例だけで判断して、命の重さを直視しないのであれば、何のために裁判員裁判をしたのかと思います。


 本日接した最高裁判所の決定には、私たち遺族は納得できませんし、娘に報告できないと考えています。娘には、裁判員裁判での判決を維持してもらうことができず、申し訳なく思います。改めて、娘の冥福を祈ります。(ココまで)

 

 

 

この6歳という何の罪も非もない幼い命が奪われた事件も死刑判決にはならなかった。

 

 

これほど、批判されている司法制度は何故変えないのだろうか?

 

 

無差別殺人に対しては、二人以上殺したらほぼ死刑にはなるそうです。しかし、被害者が一人の場合は死刑になりにくい。

 

私の持論ですが、無期懲役と死刑の間に余りにも差があり過ぎるのが問題で、批判の多い点だと思います。

 

死刑囚は懲役がなくて、死刑の恐怖を味わいながら生きていくということになる。これは人を殺めた者として当然の報いです。

一方で、無期懲役の判決は、完全に死刑から免れている刑である。

 

国としては判断は慎重にしなければならないというなら、一人でも非の打ち所がない人を殺したら死刑の可能性を残すような、あらたな刑を設けることは出来ないのだろうか。

 

つまり、無期懲役判決が出ても死刑の可能性を残すということです。 

そうすると、また、法律も書き換えなければならないのだが、これだけの批判が出ているのだから、何らかの動きがあっても良いのではないだろうか?

 

こうした悲惨な殺人事件が起こるたびに同じ議論が出てくる。被害者遺族のやり場のない苦しみや憤り。

 なぜ何度も何度も繰り返されなければならないのだろうか?